「喋る」より「書く」ことを選んだ

まいにちのこと

喋ることより、書くことを選んだ。

とは言え、他の人よりも喋って喋って喋りまくっている私なのだけれど。

だから、多くの私を知っている人がこれを読めば「嘘言うなよ~~~!!」と叫ぶだろう。

しかし、最近の私は、喋るという自己表現にいろいろと考えさせられている。

喋らない方がマシ…とさえ、思うこともある。

黙するが花…の境地。

ここでは、多くの不本意さの中から、少しだけ不本意エピソードを挙げる。

エピソード1 会議にて

ある日の臨時会議。

10人程度が集まった。

会議というのは口火を切る人間が必要。

いや、会議に限らずどんな会話だってそう。

誰から口火を切るからこそ、会話が始まる。

私は、脳内ADHDであり、沈黙に耐えられない習性をもっており、

その上せっかちときたもんだ…人が集まる場では、大抵口火を切ってしまう。

しかし…最近「口火は切っただけ損なんじゃないか」と感じるようになった。

会議を分析してみると、以下の通りである。

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わたし「●●ということだけれども、私は~してはどうかと思う。」

Aさん「それは□□でしょ。」

Bさん「そうだね、そう思う。」

わたし「じゃあ…はどうだろう?」

Aさん「それなら…」

Bさん「そうだね…」

~会議終了(したのに)~

Cさん「あのさ、私ならね…」

(と、結構いい意見を言う。←だったら会議中に言えよ~~~~~(‘Д’)

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もう私もいい歳だ。

ブログのサブタイトルにもある通り、50代である。

いくらアイデアが出てくなくても、もう口火を切って提案している場合じゃない。

じっくり皆々様の意見を聞いてから考えを総括して述べる…これこそが、50代のあるべき姿!!

もしかしたら、私が言うのを待ってからみんなが話す、と気を遣われてる???

喋ったが故に、気まで遣う羽目になる。

そんな不本意。

エピソード2 心配事がある時に

私はよく喋る。

不安な事がある時も喋る。

心配すると喋る。

兎に角、黙っていることができないのである。

不安だから。

一生懸命起きてもいない場面を想定しては周りの人に言ってみたり、

黙ってこらえることができない心の弱さがバレバレなのである。

黙ってこらえることができない。

我慢弱い。

弱い犬程よく吠える、というけれど、その極み。

じっと、不安や心配を自分の中で噛みしめる。耐えてみる。

それができてこそ、大人ってもんでしょ?!…と、自分に恥ずかしくなる。

そんな不本意。

だから、書くのである

ここに挙げた2つのエピソードには、共通点がある。

「自分が十分に自分の考えを思考して表現していない」こと。

自分にとっては、それが何より不本意なのだろう。

50代を目の前に、私は、いろいろな活動をセーブした。

それまでは、結構なイベント好きであり、お出かけ好きであり、集合好きであった。それは、今でも変わらない。

けれど、自分の時間が、噛みしめることなく、味わうことなく過ぎていってしまうことに、不本意さを感じた。

多動で気の弱い私は、喋ることで華やかに賑やかに世の中を渡ってきたけれど、

本当に自分がしたいことは、それじゃない。

自分が考えたことを、じっくりと味わって、時間を味わいながら書いて表現する。

それが一番自分にとっては納得がいく自己表現なのだと気付いたのだ。

大作家でもあるまいし、そんな大作を書く訳でも、名言を書く訳でもない。

ただ、パソコンや携帯で文字を入力している間は、自分と対話し、ディスプレイに並んでいく文字と自分の心を照らし合わせながら、それが納得できるものなのかどうか逡巡しながら書いている。

韓国の作家ファン・ボルム初の長編小説『ようこそ、ヒョナム道書店にて』集英社(2024年本屋大賞翻訳小説部門第1位)に、こんな一説がある。

https://lp.shueisha.co.jp/hyunam-dou

いま、彼女がある空間を心地よいと感じるかどうかの基準はこうだ。身体がその空間を肯定しているか。その空間では自分自身として存在しているか。その空間では自分が自分を疎外していないか。その空間では自分が自分を大切にし、愛しているか。

自分自身が自分自身の人生の時間の中で、自分が在る空間の中で、心地良さを感じながら生きたい。

それには、喋るより書くこと。

私は、そんな自己表現を選んだ。

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